「それ仏法 遥かにあらず 心中にしてすなわち近し 真如外にあらず 身を棄てていずくんか求めん」『若心経秘鍵』
仏の正しい教えというのは遠くにあるのではない。私たちの心の中にちゃんとあるのであって、他に求めるべきではない。この身を捨てて、どうして正しい教えが得ることができようか。
「迷悟我にあれば 発心すればすなわち到る 明暗他にあらざれば すなわち信修すればたちまちに証す」『般若心経秘鍵』
迷いも悟りも私たちの中にあるのだから、自らが悟りを求めようとする心を持てばすぐに悟ることもできる。悟りの明るい状態や迷いの暗い状態も私たちの心の中にあるのだから、信じて一所懸命頑張れば必ず達成できる。
「物の荒廃は必ず人による 人の昇沈は定めて道にあり」『性霊集巻十 綜藝種智院式井序』
物が発展するか衰退するかは必ず人により、人が輝くか曇るかは正しい教えを受けるか受けないかによるのである。つまり正しい教えを受ければ人は輝き、そのような人が携わる物事は必ず発展する。
「始めあり終りあるは これ世の常の理 生者必滅はすなわち人の定まれる則なり」『大日経開題 隆崇頂不見』
何事も始めがあって終わりがあるのは当然のであって、生まれたものがいずれ死を迎えることもまたおきてなのである。
「心暗きときは即ち遇ふ所悉く禍なり 眼明かなるときは即ち途に触れて皆宝なり」『性霊集巻八 招提寺噠嚫文』
暗い気持ちでいると見るもの全てが災いに見えるが、明るい気持ちで物事を見れば見るものすべて自分をささえるすばらしいものであることに気付く。
「真言は不思議なり 観誦すれば無明を除く 一字に千理を含み 即身に法如を証ず」『般若心経秘鍵』
真言というのは私たちの考えを超えている。真言を唱えれば苦しみが取り除かれる。一字にたくさんの意味や教えを含んでおり、唱える人の心に応じて真理を示してくれる。
「生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く 死に死に死に死んで死の終わりに冥し」『秘蔵宝論 巻上 序』
覚らざるものは幾度となく生死をくり返してもどうして生まれたかもわからないし、死んでどうなるかもわからない。我々は生と死を考えても自らの本源を覚ることがない。すべてが移り行く(変化する)ものであることを理解すれば、生や死にとらわれることもない。
「法は人に資って弘まり 人は法を待って昇る」『秘蔵宝論 巻中 第四唯蘊無我心』
正しい教えも人によって弘まるのであり、人も正しい教えによって成長するのです。
「心清浄なる時は即ち仏を見 若し心不浄なるときは即ち仏を見ず」『弁顕密二教論 巻下第三節 引証解釈』
我々の心が澄みきっている時は心に仏が現れるし、心が乱れている時は仏が現れることはない。